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第14次ヤッスホユック発掘調査(2023年)

第14次ヤッスホユック発掘調査は、遺丘頂上部の発掘区Area 1で、2023年9月4日から11月8日までの10週間に亘り実施されました。発掘調査は、例年通り、発掘区を覆う保護屋根を外し、遺構内部を清掃した上で進められました

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Fig.1  ヤッスホユック 南上空より  2023.11.05

1. 2023年度ヤッスホユック発掘調査の目的と発掘区域

​ ヤッスホユック発掘調査では、2021年度以来、第III層前期青銅器時代のより古い層まで掘り下げるとともに、従来脆弱な保存状態でしか検出されていなかった 中期青銅器時代の第II層の調査を進めることにより、前3千年紀から前2千年紀にかけて、前期青銅器時代から中期青銅器時代の文化がいかに変化し展開したかを明確にし、都市から都市国家、王国がどの様に形成されていったこの時期に、明確な年の痕跡を残すヤッスホユックを位置付けることを目的としています。この目的に沿って2023年度は以下の3点に焦点を当てた調査を行いました。

 

1)遺丘頂上部(Area 1)のE8/c9と E8/c10グリッドで、すでに取外されている第I層後期鉄器時代の遺構の下の層を明らかにすると共に、やはり後期鉄器時代の大遺構に壊されている第III層前期青銅器時代の末期に年代づけられる大遺構(III-1建築層)の連続部を明らかにする。

2)2022年度にE8/f7 E8/g7グリッドで第I層鉄器時代層の下に出土し始めた第II層の中期青銅器時代に年代づけられる遺構群を明らかにする。

3)E8/f10, E8/g10, E9/f1, E9/g1グリッドにおいて、2022年度にE9/d1グリッドで検出した遺構群(III-4建築層)を包含する前期青銅器時代の第2火災層まで掘り下げ、その遺構群を確認すると共に、前期青銅器時代後半の編年を明らかにする。また、より古い層への掘り下げを開始する前に、既に発掘されている前期青銅器時代末の遺構(III-1建築層)の細部を精査する。

 2023年度に調査を行った発掘区はE8/c9, E8/c10, E8/f7, E8/g7, E8/f10, E8/g10, E9/f1, E9/g1の8グリッドです(Fig. 2)。いずれのグリッドも10m x 10mです。

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Fig.2 2023年度の発掘区

2.発掘調査

2.1.  第I層:鉄器時代

 E8/c9グリッドで2017年に発掘された大きなピットP313と遺構Ins40は、その機能、用途が不明なままでした。Ins40はP313の内側に石および日乾煉瓦で築かれた脆弱な壁と祭壇かと思われるステップが備え付けられた、類例のない遺構です(Fig. 3)。P313の北部分に検出された大型の石からなる壁W351から崩落した石がIns40よりも下に潜っていることを確認し、Ins40に関わる壁と床面を取外し、P313内に検出された石群の中から崩落石を分別し、W351がW350 およびW399と共に半地下式の建物R151(Fig. 4)を構成するものでることが明らかになりました。P313は、この建物を築くために、当時ヤッスホユックの頂上部にあったもう一つの小さな丘の斜面に掘られた大きなピットであったと理解されます。R151の南壁W400はW350と明確にコーナーを形成してはいますが、他の壁に比べ、非常に脆弱で、一時的に築かれたもので、本来の南壁ではなかったのではと考えられます。グリッドの南端近くに検出された石列との関係等を考慮しつつ、来シーズンも調査を継続します。

 R151から出土した土器片はアリシャルIV式土器を含む中期鉄器時代のものですが、一部前期鉄器時代のものと思われる土器片も見られます。ヤッスホユックで出土している中期鉄器時代の遺構、遺物は、2010年に出土した象形文字が刻まれた鉛製手紙文書と共に、ネオヒッタイト王国と中央アナトリアの中期鉄器時代文化を結びつける証となるものです。

 

2.2.  第II層:中期青銅器時代

 2022年度、E8/f7 グリッドで後期鉄器時代に属する建築遺構群(I-6 建築層) を取り外しました。これらの建物の下から出土した反地下式遺構R148も後期鉄器時代に属するものでしたが、E8/f7グリッドの北端からE8/g7 グリッドに延びるR145およびR146は, R146の床面上で元位置で出土した土器から、中期青銅器時代に属するものと考えられました。2023年度は、後期鉄器時代の下の堆積層を精査し、第II層中期青銅器時代へ掘り下げを試みました。すなわち、E8/f7グリッドの東端で第III層の焼土を覆い、南西方向に下降する灰褐色の堆積土を取り除き、第III層火災層の連続部を現出させました(Fig. 5)。

 この過程で確認されたR150, P399, P400およびH45(Fig. 7, 8)は、共存する土器片から、第II層前2千年紀初頭に年代づけられます。R150は、グリッドの北端近くで日乾煉瓦と石で築かれたW396とW397, W398から成り、W396の南側には小石を敷き詰めた堅い外部生活面が確認されました(Fig. 6)。しかし、この外部生活面も南および東方向には残存しておらず、R150とP399, H45およびP400間の関係は明確ではありません。

 2021、2022年にE8/d7, E8/d8グリッドで発掘された遺構R133は、前期青銅器時代の後のヤッスホユックの頂上部に存在したと推測される小さいもう一つの遺丘の南西斜面に、大型の石材をもって築かれた堅牢な建造物でしたが、E8/f7,E8/g7グリッドで確認された遺構は、非常に脆弱なものでした。出土した土器は、前2千年紀の土器と前3千年紀の土器片が混在していました。

2.3. 第Ⅲ層:前期青銅器時代

E8/f10, E8/g10, E9/f1, E9/g1グリッドで第III層第1 (III-1) 建築層に属する大火災を受けた遺構では、日乾煉瓦壁の崩落を防ぐ目的で壁の両面に堆積土が残されていました。この堆積土を取り除き、R46とR102を再度精査した後、より古い層への掘り下げを開始しました。一方、E8/c10グリッドではIII-1建築層の大遺構の南東部に位置するR27が、後期鉄器時代の建築(I-8建築層)の床面下で中期鉄器時代の建築により激しい損傷を受けていましたが、わずかながらその東端部を明らかにすることができました。

2.3.1. Ⅲー1 建築層(第1火災層)の精査

2.3.1.1: E8/c10グリッドにおけるR27 (Fig. 9, 10)

 R27はIII-1建築層において大遺構の中央にあるコートヤードを挟む2つの廊下状空間の南側の一つです。このR27はE8/c10グリッドで中期鉄器時代の半地下式建築とピット群により激しく切り取られ、さらに後の後期鉄器時代の建築の礎石のために掘られた広く深い溝により激しい損傷を受けています。ここで、R27の床面を覆う灰黄色の焼土を取り除き、R27の南壁W59の南東端部および東壁 W405を発掘しました。R27 内部では黒色焼土を取り除き床面を検出しました。東壁W405の前ではこの床面上に大型の炉床が確認されました。この炉床周辺からは、特徴的なプロフィールをもつ片手杯やYH23-46 (230063), YH23-72 (230049) (Res. 41)、嘴形注口付壺形土器がその他の土器片と共に出土しています(Fig. 11)。また、W59の直前の床面上では銅/銅合金製の槍先YH23-49 (230050) (Res. 49 ①).が検出されました(Fig. 12)。

2.3.1.2: E9/f1グリッドにおけるR102

    E8/f10, E9.f1, E8/g10 ve E9/g1グリッドで、R21, R46, R102, R47を構成する壁W58, W90, W121, W278 ve W296の前面に壁の崩落を防ぐ目的で残されていた堆積土を取除いたところ、これらの壁が床面のレベルよりもさらに下方へ続いていることが確認されました。また、W58の南東端近くにR102とR21を結ぶ出入り口が存在しました。

R46に比べると損傷の少ないR102で床面よりも下方に続く壁および敷石の残る床面をより良く理解するために精査を行ないました。E9/f1 ve E8/f10グリッドで床面と壁の細部までクリーニングし精査したところ、敷石の上に床面が作られていたことが確かとなりました。床面下の平石が敷かれた層ではあちらこちらに土が陥没した箇所が観察され、おそらく下層の不均衡な土の堆積を均衡に均すため敷石が施されたものと推察されます(Fig. 13)。敷石遺構を取外すと、R102の壁に付随する第2の(古い)床面が検出されました。この第2の床面に伴うものとして、R102の東壁W278の南端近くにR102-R104間の出入り口に上る日乾煉瓦からなる3段の階段Ins43が確認されました(Fig. 14)。この階段は第1の床面により覆い隠されていたもので、第1の床面当時はR102の内部床面から 出入り口へわずかな段差で直接繋がっていました。

第2の床面を取り外すと、火を受けた日乾煉瓦片を多く含む赤橙色の焼土が顕われました。しかし、R102の壁W58, W278, W121はさらに下方に続いていました。すなわち、この建物が建造される際、まず大方の壁が築かれ、壁に囲まれた部屋空間内の床下に基礎土を詰め、その上に比較的細かい上質の土で床面が作られ、さらに化粧土として漆喰が塗られていたものと観察されました。壁の作りの細部については、後述するようにW121を取外す際に観察されました。

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Fig. 3: Ins40, W351in P313, E8/c9

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Fig. 4: R151, E8/c9

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Fig. 5: 第II層中期青銅器時代の堆積土、E8/f7

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Fig. 6: R150, E8/f7, E8/g7. 第II層

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Fig. 7: H45, P400, E8/f7, 第II層

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Fig.10 : R27の南東端で出土した炉床 H49,E8/c10,Ⅲー1 建築層

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Fig. 11: H49 周辺で検出された土器

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Fig. 12: R27  床面で検出された銅・銅化合物製槍先  YH23-49(230050)

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Fig. 13: Ⅲー1 層 王宮址の北東部、R46, R102

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Fig. 14: R102の第2の床面、R102-R104間の出入口に上る階段H43, E9/f1, Ⅲ-1層

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Fig.9 :  Ⅲー1 建築層の遺構図

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Fig. 8: H45 炉床下に敷かれた土器片

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